受け取り拒否していたときは見えなかった愛が見えた春
こんにちはカウンセリングサービスの美吉風香です。このところ桜がどこもかしこも満開で幸せな気持ちでいっぱいになります
筍は春の味覚の代表ですよね!私はむかしアウトドアの仲間と筍堀をして以来、掘りたての筍の味に病みつきになり、いつも春になると筍が待ち遠しいのです
先日私は実家に帰り、偶然ご近所の方からいただいた大好物の筍をお腹いっぱいに食べて最高に幸せな気分になりました。そしてその時ふと気が付いた、私が母から受け取れるようになった愛情と母からの愛情を受けとり拒否をしていた時の感じ方の違い、ものの見方の違いについてお伝えしたいなと思いブログを書いております。
私は昔むかし、いや実はそんなに昔ではないのですが…(笑)
私は母に愛されてないと強く信じていました。絶対に母は子供の中で私だけを密かに嫌っているとリアルにそう感じていました。
それを自分が認めるのは悲しくなるから、感じても気にしないようにしてみて見ぬふりをして流してました。でも時々ふとこみあげてくる寂しさに気がつくと、とても空しくて、ブラックホールに落ちていくような深い孤独を感じるのでした。
しかし一方で、辛いことがあるたびに私は母に承認されたい強烈な衝動がおこり、嫌々ながらも母へ助けを懇願しにいくのでした。
でもこういうときに母は決まって「お母さんは冷たいのかもね」「お母さんはクールなのごめんね」と冷ややかに突き放すのです。(実際は違ったのでしょうが、当時は私の被害者意識がひどすぎてそう感じていたのだと思います…( ;∀;))
そして、母は私を嫌ってクールだったのではないのだと今は解りました。
あれは単に母が「恥ずかしがり屋」だったのですね。
私が自分がとっても恥ずかしがり屋だと自分を理解したぶんだけ、母も相当な恥ずかしがり屋だったと理解できました。大人になった娘に今更「大好きだよ」「感謝してるよ」など恥ずかしすぎて言えないだけだったのです・・・。しかし私はその言葉を異常なまでに求めていた、母に承認してほしかったくらい自分の価値を自分で感じられなかった訳なのです。
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しかし数年の月日を経て、昨日の筍ご飯を食べてる私は完璧に別人でした。違っていました。
このところ母は父の看病で疲れ切っており外出する元気もないほどになり、「もう疲れた」と愚痴をこぼしてばかりでした。そんな母を心配して数週間ぶりに実家に帰った私でした。
筍はえぐみがひどくならないように下処理は早ければ早いほど美味しいのですが、皮をむく下茹でするという手間暇がすっごいかかるんです!!筍をご近所さんにいただいたからといってもあんなに疲れ切ってる年老いた母なら筍を放置してもいいはずです。私が帰宅するのをあと数時間まって、私に筍の下処理させていいお話なんですが…。
しかし母は、疲れているのに大量の筍の皮をむいて、糠で下茹でをしてくれ、そのため母の手は灰汁ですこしかぶれてしまってましたが、私の大好物の筍の煮物と筍の炊き込みご飯を作って嬉しそうに夕飯にならべてくれたのでした。
みなさんはわかりますよね。
これは紛れもない「母の私への愛情」ですね。言葉はなくともこれは愛です!!解ります。
そうなのです、母は自分が寝込むほど疲れてるよりもそんなことよりも娘への愛が勝るのでした。老体の母が大量の筍の皮を剝いてしまうほどの愛、どれほどの大きな愛でしょうか・・・。
私は幾つになっても、いったいどれほどに母の喜びなんでしょうね~
やっとこれが母の愛なのだと心から感じて、母の愛をちゃんと受け取れました。
私はこれが母の愛だと気づくまでに、どれほどの時間がかかったでしょう。。。
昔から母は家族のために、忙しい寝不足の時でも疲れていても、おいしいご飯を作ることは絶対に妥協しませんでした。
しかし以前の私はその母の行為を当然だ、当たり前にうけとり、心からの感謝を感じていなかったのでしょう。ここは私の認めたくないような自分の痛いところです。
「母よ!ごめんなさい!」私があなたの愛の受け取り拒否をしてました。(子供時代ならいいんですけど、大人になってもやっていたのですから私はすっごーーーい依存ですね!恥ずかしいです!!!)
あなたの「ありがとう」と「ごめんなさい」を言ってないない人は誰ですか?
そして受け取り拒否をしていた時の私はこう感じたとすぐにわかります。「お母さんは世間体を感じて、筍をくれた人のために仕方なしにイヤイヤ作ったんだ。私のためなんかじゃない。」とか「本当は迷惑で嫌な筍だったはず」など母が私を好きだから笑顔が見たくて作ってるとは絶対に思いたくなくて、意地悪な斜めなものの見方をしていただろうとおもいました。。。昔の私はひねくれていました。
例えそれが凄いことだと思考でわかってても、「そんなのは愛じゃない」「そんな愛は要らなかった、私の欲しい愛情は違うものだった!」と心では冷ややかに怒り、愛の受け取り拒否をずっと続けていたのは私の心の痛みであり問題でした。
当時の私は「自分が愛されてる」と認めたくない、被害者でいたい無意識が強くあったんです。
母に文句を言い続ける、被害者をして怒りつづけるを無意識にやっていました。そして自分も怒ってるからつまりは誰かに対して加害者になり、罪悪感(罪悪感=自分は罰せられるに相応しいと感じる感情)がまた膨れ上がるといたう悲しい負のループから抜け出せずに、誰にも愛させない、誰の事も愛さない孤独の世界にいたんですね。
今の私は??
そこにある母の愛情もいっぱいいっぱい受け取っていました。とっても幸せな時間を満喫してました
「おかあさん いつもありがとう!!!」
「おかあさんの筍料理はそのへんの料亭のものより絶対に美味しい!!」
「おかあさんのこの筍ご飯は外で食べたら3000円はするよね♪」など言いながら笑顔が止まらない状態でした~ヽ(=´▽`=)ノ
私は翌日、冷静に自分を振り返り気づきましたね。
きっとわたしは過去にもおなじ体験を何度もしてきたのうに、私はそれを愛だと気づきたくなかったんだなぁ・・・そして「愛がある」のに気づかなくて「愛が無い」と怒っていたんだとしみじみと筍のおかげでわかりました。まるで歌の歌詞のようですね(笑)
金子みすゞさんの詩で「星とたんぽぽ」が好きなのですが
「青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星は目に見えぬ。
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ」
私はことあるごとにいつもこの詩を思い出すんですよね。
私達は見ようとするかしないかだけではないか?
昼間の空にも星はあるけど、見えないだけで確かにあるんですよね。
あると知ってみようとしてみるか
みないかだけでそこに在る世界が違ってくるように
私たちの周りには目にはみえないけれども必ず優しさや愛があるんですが
それをどうやって自分が見ようとしてみるのか?
感じたくなくて愛を受け取り拒否してるのか?
なんで愛を受け取り拒否したいのか??いったいどんな理由があったのか??
クライアントの心の奥にある痛みにどうやってアプローチしていくのはいつも考えます。
そいういう私もずっとずっと
愛がないと怒って生きていた人だから言うんですが
本当に苦しいんですよね。
好き好んでおこりたくて怒ってる人は誰もいませんよね。
愛がみえないと怒ってるのにも必ず理由があるんですよね。
一人で自立してる孤独な戦いでは燃え尽きてやがて倒れます。
一緒に悩み考えて笑ってサポートしてくれる人が一人でもいたら、希望が感じられるようになると私は思うんです。
ぜひいま見えてない愛や優しさを感じて受け取れるようになりたい、変わりたいとそう思われた方。
ありがとうやごめんなさいを誰かに伝えたいけど言えない方がおられましたら、ぜひ私たちカウンセラーにご相談くださいね。
一人ではできなかったことが、誰かとならできるかもしれません。
ぜひサポートさせてくださいね。